どうやら俺は「集中したい」らしい 自己のADHDへの分析
昨日はやる気というか焦燥感というか、ケツについに日がついてぶっ通しで8時間こなした。
本当にしたいことがあるともう全てがどうでもいい。
集中スイッチが入ると他人のとのかかわりが嫌で、飯を食うのも億劫になる。
もう放っておいてくれよ、ってなるのだ。
そうして今日も中々やる気に火がつかず、昼寝をこなした後ネットの情報を転々としていたのだが、自分の中で大きな発見があった。
「俺は集中したくない、勉強したくない」のでなくて「集中したくて仕方ない」のだ。
ネットの情報を常に転々としているときの俺の集中力はおよそ20秒ほどで転々としている。ツイッターとか、記事とかはそうだ。
しかし、ネットサーフィンで時間が一瞬で過ぎるかといえばそんな事はなくて、案外長く感じる。
他人にかまったり意識が行くのもこのせいである、集中できる何かを探しているのである。
つまり、集中力の向ける先を探しているのであるが、他人に構う事に正直集中力や目的、意識は必要ないので無駄に時間を使うことだけになっている。
あるいは対人関係において何か目的意義があるときは一瞬で時間が過ぎる。
動画を見ているときや映画を見る、特に実際に脳を使って手を動かす作業は本当に一瞬に感じる。
俺が日常生活の中で唯一能動的に毎日やりたいな、と思うのはブログを書くことだ。
これは素直に打ち込める。
ブログを書いていると時間はあっという間に過ぎるしどんどん内容が書ける。
内容を推敲するわけではなくただ書きながら機械的に溢れてくる。
なんか、上手くいえないんだけど
俺は逆に集中したくて仕方なかったんだ。
ゲームをするのもTVをつけるのも音楽を聞くのも
集中したくない からではなく その物事に集中したいから であった。
つまり、気を散らしながら逃げているのではなくて
集中できる対象を必死に探している状態 であったらしい。
しかし、ネットサーフィンに目標はあるだろうか?
無い
音楽鑑賞に目標はあるか?
無い
まぁ最近は自分のADHDっぷりを試みて、今日印象的なことがあった。
これのおかげでさっき言った事に気づいたのだ。
今朝は予約していた保険管理センターで禁煙プログラムの受付に行ってきた
(ちなみにニコチンパッチを貰うなら心療内科の先生から許可を取ってきて欲しいといわれたのでまたプログラムの開始は延期になった)
で、そのときたびたび診療室で待っててねといわれて5分ほど待たされることが5,6回ほどあった。
それで医師が出て行って部屋に待たされるとそわそわして部屋を意味無く動きまわったり、注意書きをいったりきたり読んだり貧乏ゆすりしてみたいと集中力の無さ、じっとしていられない事をとにかく実感した。
特に俺がニガテなのは予備知識のある、既に知っている内容をもう一度口頭で説明されるのを黙って座って聞いているという物である。
なので、以外と自分の知らない分野に関しての授業や課題は集中して聞ける。
逆に知っている内容の授業はつまらなくて仕方ない。
喫煙の害について話されているときめちゃめちゃそわそわした。
実際には多少指を動かすとか、足を頻繁に組みかえる程度なのだが内心はめちゃめちゃそわそわしている。
それでまぁ数分の時間がめちゃめちゃ長く感じて、あぁ俺集中力無いなぁだなんて思って相手にこの態度は無礼だしどうしたら落ち着いているように見せられるだろうか?と感じた。
相手の目元を透過した奥にパソコンがあるのが見えた。
なので、そのパソコンをじっと見て通気孔の数を四則演算してみたり、ボタンの配置や配色・工学・あるいは芸術的に考えるとどんな意義があるのか という遊びをすることにした。
すると先ほどまでの落ち着きの無さはどこにいったのやら、心も落ち着いてじっと相手の話を聞くことができた(聞いていないのだが不思議と返答を求められる場面では返せる程度に意識を割いておくことができた。)
ADHDの症状について
集中困難・過活動・不注意などの症状が通常12歳までに確認されるが、過活動が顕著でない不注意優勢型の場合、幼少期には周囲が気付かない場合も多い。
年齢が上がるにつれて見かけ上の「多動(落ち着きがなくイライラしているように見える)」は減少するため、かつては子供だけの症状であり、成人になるにしたがって改善されると考えられていたが、近年は大人になっても残る可能性があると理解されている。その場合は多動ではなく、感情的な衝動性(言動に安定性がない、順序立てた考えよりも感情が先行しがち、論理が飛躍した短絡的な結論に至りやすい)や注意力(シャツをズボンから出し忘れる、ファスナーを締め忘れるといったミスが日常生活で頻発する、など)や集中力の欠如が多い[2]。遺伝的な要因もあるとされるため、症状は育て方や本人の努力で完治することはないとも言われている[12]。近年では成人にADHDを認めるべきと考えられている。[13]
と、俺もファスナーを閉め忘れたり シャツがズボンから出ていたり、靴紐が甘かったりと細かいミスが多いし とにかくまぁ顕著なのは多動だろうと思う。
俺の多動が顕著なのは中学高校にかけて、特定のグループに属さない、
帰る相手が毎回違う という事であったと思う
俺はいつもグループで帰るのではなく、見かけた順に顔の知っているグループに飛んで行き、そこで5分時間を潰して走り出して前のグループで5分時間を潰す という飛び石のような下校を続けていた。
また、授業中の演習中も本当にウロチョロしていて、うろちょろするな と怒られた。
なるほど、この集中力の散漫は逆に集中できることを探していた という行為から考えると非常に納得がいく
そういった先天的異常の結果、ADHDでは前頭前野、海馬、偏桃体の機能が低下するといわれている。
海馬は記憶をつかさどる。刺激に対する重要かそうでないかの判断ができにくくなる。あらゆる刺激に反応するため、集中力が欠如する。
偏桃体は好き嫌いや、出来事や物事の安全か危険かを判断する。ここの働きが鈍いと刺激に対する安全かそうでないかの判断ができにくい。
前頭前野は情報から行動を判断をくだす。情報を選択する能力が低下するため、過去の経験を生かしたり、周りの状況を考えた行動が出来なくなる。KY、空気の読めない人間になる。
しかし、実は逆に活発になっている部分もある。
それが視床下部。
視床下部が活発になると、はやりたくないことは全くやらない、だけどやりたいと思ったことは一心不乱に集中する。
完全にコレだな、と感じた。
いつも勉強を始めるときにとにかくとりかかる方法として好きな音楽をかけながらタイマーを5分だけセットしていやいや気分を盛り上げて5分だけとりかかるのだ。
そうすると大体5分もすればスイッチが入って音楽はうるさいので消し、タイマーも延長するのが毎回だ。
最近ではそのスイッチの入れ方 みたいなのが少し感覚的につかめてきたような気がする 少し精神を前のめりにすることでスイッチが入りそのことに集中できる感覚が身に付いた。
思えばこれは本当に納得がいく 俺がこれだけ長文を書いてしまったり 哲学やら社会学やら色んなことをかじって 情報の波に飲まれて 自分の中で異常な量まで考えことをしてしまったのはこの「集中」が内面に向いていたのだ
つまり、俺は常に集中できることを探し続けていて その対象として内面に向かっていたのではないかと思う。
おかげで周囲のウェイみたいなのとは大きくギャップが生まれ、独特の視点や考え方を持つようになったように感じる。
これは本当に生まれつき持った物であると感じる
俺は音楽に興味が無い なぜあんなにバンドやライブを信仰するのかは本当に理解できかねないし、この世からバンドが消えたところでへーってな感じだ
というか音楽鑑賞の方法がよくわからない、音楽への集中の仕方を知らないのだ。
だから音楽に興味が無い。
逆にBGMは好きだ。なぜなら俺は音楽を聞いているときに歌詞を追うことができない
何度聞いても歌詞を意味として捉えることができない つまり音楽を脳内で音楽と処理しているときに同時に言語という意義を捉えることができない→シングルタスクに特化していると言える。
初めて俺が死について考えたのは4歳程度だったように思う
死んだら天国に行くと教えられ、永遠に天国だといわれた
そうなると永遠というのは最も地獄ではないのかー?
その思考のド壷にはまってしまい眠れなくなり泣きながら両親の寝室を訪れ生まれ変わりという概念をしって一旦決着をつけた。
5歳のときのお誕生日カードを以前発見したことがある。
ぐにゃぐにゃの読めない文字で「いきるってなに」と記されていた。
以上からこれは完全に先天性のものであると感じる。
あまりADHDをいう枠組みを与えるとそれに役割かするという事を重々承知しているのでそれに対してはハマらないように距離感を保つ必要がある。
面白い。書いていてどんどん自分のことが紐解けていく。
さて、全く興味が無いだろうが自分の備忘録の為にも自分の対人関係について分析を兼ねて記しておく。
コミュ力という物についてた。
俺はコミュ力という物について言えば正直いっておそらく平均より高い。
プレゼンは得意だし、喋りながら次の内容を展開することができるのでテーマさえ与えられれば、あるいは与えられなくても一人で一時間程度は喋ることができる。
しかし、俺が対人関係においてニガテな物がある
それが、「集団での役割をこなす」という事である。
飲み会がニガテなのはこれに顕著である。
飲み会では俺はいつもはじっこらへんでポツンと取り残されて静かにしている。
複数の人間がいるとどこに集中の意識を向ければいいのかわからないのである。
重要なのは全員に気を配り、満遍なく役割をこなすことであろう。
つまり集中力の散らしが重要なのである。
これが全くできない。
ゆえに今までグループに属すということがてんでできなかった。
しかし、1対1の対人関係 これは非常に得意である。
なぜなら向ける意識は相手だけでいいのである。
そうなると非常に上手くコミュニケーションを運ぶことができる。
まぁこんなん書くと叩かれるだろうが、わかりやすく言えば俺は
集団の中ではモテないが、個人として対面する場合においてはモテる
というのが顕著だ
(ここで言うモテるとは受動的な相手からのアプローチではなく、自分から相手をひきつけることができるか?という意味であり異性を自分の物にするという事ではなく同性も対象としている)という意義であることを断っておく。
俺と個人で対面したことがある人は知っているだろう、そのときは俺は非常に生き生きしているが集団の中に放りこまれると自分の役割を考えることができなくなり沈黙する。
個人で対面するときの俺は非常に生き生きしている、元から相手の内面に興味を持つ性分であるがゆえに、何の根拠もないが相手の感情が全て抜けてくるようにすら感じるときがある。
声のなんてことない抑揚や、ほんの小さな動作や表情の瞬きが異常に目につくし そこから無駄に蓄積された知識からフル稼働して展開を捉えることが出来る。
逆に集団ではこれはできないのでいつもだんまりしている。
つまり 集中先と動機をマッチすれば俺は無限にそれに向かって行けるという事を示している。
集中力が無いのではなくて 完全な動機づけが自分で今できていないのだろう。
バイクが欲しいと思ったときは鬼の集中力で欲しいと思い立って0から金をためて免許を取って現金で買うまで三ヶ月しかかからなかった、家に帰って毎日調べてチャリに乗りながららギアチェンジのマネをして夢にも出てきた
あれは完全に目標が定まった集中状態であったと思う。
このブログがいつも長いのはこの理由だろう。単純に好きで、長い。
ここまでほぼノンストップで書いている。
んで、今急に飽きた。
また相変わらず意味の無いことに時間を費やしてしまったが自分の中で納得が言ったのでよかった大体1時間ちょいは鬼のように集中できるようだが ブログには目標や達成感が無いのでその程度っぽい。
何か目に見える形で結果を示して確信できれば恐らく俺は8時間程度は勉強できるっぽい、現にそうだった。
だから、大事なのはとにかくやることと集中力を分割させずにいっきに詰め込み
それを毎日詰め込み 予定通りにこなすことであることがわかった
なので、はい、今日もずっと集中できることをさがしていので、今から勉強に向かっていきます。
では。また無駄な時間を使いました。